『禅学大辞典』には「善悪、迷悟などすべての二元的対立をふたつながら忘れ去り、自由な境地にいたること」と説明されているが、開山、釈宗活禅師は更に丁寧に「両忘とはどんな意義かとよく聞かれますので、両忘という意味を一寸お話しておきましょう。両忘、両つ乍ら忘ずるということはどういうことであろうか。これは人々これを蒲団上で実際に経過してきているでしょうかが、能所二つ乍ら忘ずるということで、能は能見そのもの、則ち見る方の自己。所という方は自分に対する一切の万縁万境。つまり見られる方の彼でありまして、これが見る方と見られる方、我と彼、その両方でこの相対的に世間一般の人は生涯を送っております。しかし我と万縁万境と相対しておったのみでは、真理の根本に徹することは出来ぬ(中略)。両忘即ち見る方と見られる方、聞く我と聞かれる彼と、この能所を両つ乍ら忘ずる境涯に至らねば、父母未生以前の消息を自覚することは出来ません。でないと凡て能見所見と両境常に相対する。この両つの境涯を忘ずること、則ち心境一如になることで、これを言い換えれば両鏡相対すると同じことである。自分が一枚の鏡であると同時に向うも一枚の鏡、自己の面が彼れの面、彼れの面が自己の面、その鏡と鏡と両鏡相対すると同じで、我他彼此の畦の切れた処であります。両鏡相対する時は何う。畢竟我という影もなければ彼という影も写らぬ。何物も中間に於て、糸毫ばかりも影法師の写るものがない。これを両鏡相対するというので、両忘もこの意味であります。此所へ一度どうしても入らねば、真理の消息に通達することが出来ぬ。此所を親しく手に入れて、宗通説通両つながら自在の力を得んがために坐禅の修行をするのである。」と述べておられます。 |