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沿革



〇明治初年、山岡鉄舟、高橋泥舟、中江兆民、ら
 十数名の志士が鎌倉円覚寺より時の管長今北洪川禅師を
 拝請して禅会を結成し、これを「両忘会」と名付けた。
〇同 三十五年、円覚寺に修行、嗣法した釈宗活禅師は、
 東京谷中に広く世間に門戸を開いた禅道場として
 両忘菴を開設。
〇その後、会は発展して市川市国分新山を本部会堂に
 国内外に支部を設け両忘禅協会となるが、
 昭和二十二年組織を解散して宗活老師は八日市場(匝瑳市)
 の田舎家に於いて隠栖され遷化。
〇昭和三十年 大木琢堂老師により宗教法人両忘禅協会再興。
〇同 四十五年 茂原市の現在地に古民家を改築して禅堂を開単。
〇同 五十三年 青少年研修道場(坐禅堂)竣工。
        三笠宮寛仁親王殿下ご台臨の下、落成式を挙行。
〇同 五十八年 本堂(山階宮家持仏堂)開山堂(皇居の元近衛兵詰所)
        庫裡(山形の古民家)を移築建立。
〇平成二年 アメリカ合衆国ワシントン州に別院開設。
〇同 二十二年 鎌倉円覚寺の国宝舎利殿より
        分身された仏舎利の奉安法要を厳修。

両忘庵に参禅し、社会に貢献した多くの人々の中には
明治維新の志士を始め、京都大徳寺菅長、後藤瑞巖老師や、
画家 萬鉄五郎、女性開放運動の先駆者、平塚雷てうがいる。
文豪 夏目漱石もその一人であり、小説「門」の中に
釈宗活老師を宣道なる若い僧で登場させて
次の一句を贈っている。

 そこもとは
   案山子に似たる和尚かな